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On Indian Philosophy and Buddhist Studies

新しさ

研究対象そのものに影響されるということはあるでしょう。

信心深い研究対象をやっていれば、それなりの畏敬をもち、それらしくなります。

型が自然と身に付くということです。

欧米で仏教を教えるとなると、自然、菜食のほうが(お坊さん学生の手前もあり)便利でしょう。

E島先生は、たくさんアジアからの留学生を受け持っていましたけど、しかし、ノンアルではありませんでしたから、その点だけは、おそらく、菜食・ノンアルのお坊様方は、眉をひそめていたことでしょう。

お坊様の場合、「庄屋」における夜の授業にまで付いていくことができませんからね。

我々は、半強制的に行かされているようなところもありましたけど。(有難迷惑だったのかといえば、よく考えれば、先生と飲める機会というのは、コロナの今になって思えば、むしろ、貴重なものだったのかもしれません。私も、もう随分、学生とも飲食してません。そして、伊都だと、今後もあまりなさそうです。そもそも店がないですからね。おそらく周りも似たようなものでしょう。)

ジャイナをやるとなると、これまた、菜食は、半分、マストみたいなところがありますから。

日本のK大先生が、ジャンブーヴィジャヤ師にお説教されているのは笑いましたけど。(説教している当人はもちろん真剣なんでしょうけど。)

私ですが、ティルパティのサンスクリット大学となると、ベジの人しかいませんから。

「おまえはベジか?」「卵食うのか?」は、よく聞かれました。

幸い、ヴァイシュナヴのお寺に住んでいたので、出てくるのはヴァイシュナヴァのピュアベジですから、何も考えずともベジになります。

ほぼ無意識化されたベジ。

単なるプラクシスの世界ですから、考えるまでもありません。

そういうものだ、ということで、わざわざ意識してやろうというほどのことはありません。

あとは、勝手に体質のほうが変わってきてくれます。

そのうち敏感になって、肉の匂いが、気持ち悪くなりますから。

酒は、そもそも、アーンドラは、その当時、ドライ州でしたから、存在すらしてません。

タミルとの州境で、酔っぱらいが飲んだくれているのを見て、なるほど、ここまでするかと思ったものです。

そもそも、インドの場合、酒屋(の裏)で飲んでいるのは、かなりのレベルですからね。

日本でいうと、まさに、場末、この世の終わりというようなイメージです。

普通の人間がでかけるような場所ではありません。

なにしろ、やましい裏口という雰囲気が濃厚にでてますから。

もちろん、男性しかいませんし。(そういえば、ポンディにいたとき、いつもミルクを買う雑貨屋の近くの裏に、そういう飲ませる店があって、たまに、絶望したかのように酔いどれてるおっさんが昼間からいたりしました。辛いんでしょうね。基本、酒=酔うため=辛さを忘れるため、というイメージが濃厚に漂ってました。)

酒税の低いポンディでも、ついぞ、そのような店に近寄ったことはなかったです。(文化人類学でもやっていれば、興味本位で入ったでしょうけど。)

閑話休題。

で、何が言いたかったかと言うと、ミーマーンサー研究をしていると、「新しさ」つまり「オリジナリティ」に敏感になるということでした。

ミーマーンサーの場合、プラマーの定義に、新しさも入ってます。

つまり、新しい情報の源がプラマーナです。

正しいだけではだめなわけです。

役に立たないといけないわけです。

最新のニュースだけが、彼らにとっては「真の情報」なわけです。

いっぽう、ニヤーヤでは、正しければ、それが古かろうが新しかろうが(既出であろうがなかろうが)関係なく、正しいわけで、そのような情報を伝えるものはプラマーナになります。

「これは壺」「これは壺」「これは壺」、同じ壺を繰り返し見て確認しても、どれも、正しいわけです。

(ミーマーンサーの場合、時間も直接知覚できると考えるので、T1とT2とT3の違いがあるので、そこにも何らかの新規情報はある、というようにして対処します。)

基本、インド哲学では(少なくとも古いところでは)、想起のような繰り返しの認識は、プラマーの枠から(最初から)外されてます。

過去の知覚情報を繰り返すだけの思い出しの想起は、プラマーの仲間には入れてもらえません。

新規性をプラマーの定義に組み込んだのがミーマーンサー。

仏教も同じ。

クマーリラもダルマキールティも、この点では、お仲間です。

新しくなければ情報ではないのです。

このような意識は、もちろん、聖典に無駄がないという、無駄があってはならない、単なる繰り返しなどあってはならない、どれもこれ、一言一句有意義である、あるべきだ、という切り詰めた意識からきています。

言葉への信頼。

それは、重複を許しません。

切り詰め。

パーニニの一言一句が金言であるのと同じです。

パーニニの人為文ですら切り詰め切り詰め、一言一句に情報がつまりまくって、ひとつの無駄もないのですから、ましてや、ヴェーダに無駄のあろうはずがありません。(そういえば、経典は、えらく繰り返しが多いですけど、あれは、ミーマーンサー的な視点からは、正当化しようがないほどに「単なる無駄」です。いっぽう、James Brown的には、繰り返しの中に恍惚があるので、唱えるということを考えると、繰り返しは、最高に気持ちいいわけですが。)

何か新たな(正しい)情報を伝えているわけです。

というわけで、ミーマーンサー研究者の場合は、どうしても、オリジナリティということを意識するように、自然となります。

この論文の何が新しいのか。

正しさだけでは、繰り返しの可能性がありますから、先行研究で既に言われているかもしれません。

独自の視点というのが重要という意識が、普通よりも強くなります。

正しいと思って新たなことを言おうとするわけです。(結果、間違っていたとしても、いずれ訂正がされるでしょうから、実際には、新しさのほうが重要です。間違いを恐れて同じことばっかり繰り返していたら、発展はないでしょう。)

だとすると、anyathaanupapannatvaを立てるジャイナの人は、「そうだとしか考えられない」ということを根拠に、すべてを論じると面白いかもしれません。

あるいは、「そうとも考えらえる」「別の側面からは、こうとも考えられる」というようなことを言い出したら、さすがジャイナと思われるかもしれません。

さらに言えば、仏教の場合、原点に立ち返るなら、「無記」として答えないのもありかもしれません。

頭でっかちになると碌なことはありませんから、「不識」として殴って追い返すくらいでもいいかもしれません。(今の大学で臨済式はできませんけど。)

我々の分野で言うと、やはり、日本人の論文は先行研究に則りすぎて、お行儀がいいのが多いので、オリジナリティという点では、まだまだ「薄い」感じがします。

海外の友人からの日本人論文評を聞くと、このオリジナリティの薄さが、どうも、彼らには引っかかるようなところがある感じです。

というわけで、我々の分野で英語論文を書く人は、その場合には、もうちょっとオリジナリティの側面を濃厚に出したほうが、受けはいいかもしれません。
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  1. 2021/11/29(月) 08:10:45|
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シェムリアップ → ブッダ






スロスさんによるカンボジア料理のシェムリアップが閉店.(もともとは,病院前の馬出,そこから吉塚商店街の銭湯跡へ,そして,同じエリアのここへ移転.)

その後にできたのが,ネパール人のラクシュマンさんによるインド・ネパール料理のブッダ.(南区向野にあったブッダ(閉店)と同じ.)

クメールからネパールへ.

或る意味,インド文化圏の周縁から周縁への変化.

なお,おもしろいことに,手前のスペース(壁を隔てた奥にはレジスペースとキッチンがある,その手前の空間)には,ガネーシャとシヴァが祀られています.

ブッダにシヴァ,そして,オーナーはラクシュマナ(ヴィシュヌの化身たるラーマの腹違いの弟).

ブッダ,シヴァ,ヴィシュヌ,全部入ってますね.

さすが,ネパールの混淆ぶり.

シェムリアップ市も,もちろん,それぞれの寺院がありますから,にぎやかです.(看板の写真はアンコールワット.当初はヴィシュヌを祀る寺です.途中で仏教にコンヴァートしたようですけど.)

日本の神仏習合もこんな感じでさぞかし楽しかったのでしょうけど,明治政府もいらんことしてくれました.

頭でっかちの観念で長年の習俗を切り分けるなどというのは,いったい,何様でしょうね.

新しい時代の改新,改革というのは,どこも,いつでも,人間は,一足飛びに,したくなるようですけど.

碌なことはありません.(というわけで,明治の仏教僧は,焦って色々と動いたのでしょうけど.)

頓悟と漸悟で,頓悟に飛びつきたくなる人は一定数いますからね.

なお,クメール文字もデーヴァナーガリー文字も,起源を同じくします.

大元はブラーフミー文字です.

書く(あるいは引っかく)際の材質(樺皮などに専用の墨で書くか,葉っぱのなめしたものを引っかいて傷をつけるか,石に彫るか等)に相応して,文字も,それに便利な形に変化していきましたけど.

ブッダ,商店街の中なので,自転車を真ん前に止められないのは,ネパール人学生にとっては,かなり不便な気がします.

お昼に食べている時も,誰も入ってきませんでした.

あとは,空間的に,いまいち,いまどきのネパールの若者に受けそうな要素を見出せません.
  1. 2021/11/26(金) 23:59:02|
  2. 未分類

「木」や「青蓮」の分別知



AもBも同じく「木」だとする分別知の上には,対象の形象が顕現していますが,その時,その対象形象は,実際には内的な認識の一部であるにもかかわらず外界対象であるかのように顕現していますし,また,「木」なる一者として現れていますし,非実在であるので効果的作用を持たないにもかかわらず効果的作用を持つかのように顕現しています.

というわけで,我々は,それを本当の木だと思い込んで,その木に対して,行動を起こすわけです.

分別知に顕現する内的な対象形象,すなわち,分別知の影像が,他からの異なりという共通性によって,「同じ」と把握されるわけです.

これが木性という共通性の分別知です.

つまり,AについてもBについても「木」とする有分別の認識.

いっぽう,「青い蓮」というsaamaanaadhikara.nyaの言語表現の場合,非青から排除されたものと,非蓮から排除されたもの,というように,二つの排除を伴った一つの基体が把握されます.

青い蓮なる実在をこの分別知が対象としているわけではありません.

「青い蓮」というsaamaanaadhikara.nyaの言語表現は,対応する実在を持たないわけです.
  1. 2021/11/26(金) 23:20:43|
  2. 未分類

成長曲線



大概、博論出版物がピークだったりします。(博論が出版されてない場合は、博論につながる個々の論文。)

そのひとの(外からでも目に見える)業績の質。

あれだけの労力と濃度で作り上げるものとか、なかなかないですから。

時間の問題もありますし。

就職してからだと、なかなか難しいものがあります。

ひとの面倒も見ないといけませんから、自分の研究ばかりに時間を費やすことは不可能です。

とはいえ、ずっと伸びる人もいるでしょう。

いまは、とはいえ、博論がピークになっただけ、まだマシかもしれません。

その昔は、すくなくとも我々の周辺では、修論がピークでしたからね。

あとは、非常勤だったり、結婚したりで、なんだかんだで、誰も勉強してませんでした。(勉強したいひとは留学して、海外のPhDを取る方向に進むしかありませんでした。)

学会発表も、修論から切り出したような、薄くなるいっぽうの塩水だったりするのが傍目にも明らかな人もいました。

そんなもんでした。

なにしろ、日本にいると、課程で博論という道が、ほぼなかったですから。

そんな大それた人は、道として一般的ではなかったのですから、仕方ありません。

「何様?」となりますから。

もちろん、3年で出せるようなレベルのものなら、博論にあらずとして、きっと、切り捨てられたでしょうし。

時代がかわって、意識がかわって、よかったです。(私の1学年上でも、課程博士は、結果的に、いなかったですね。久間さんは、前世代の例にならって、ウィーン留学のPhDですし。2学年下の護山も同じくウィーンのPhD。)

強制力、外圧がなかったら、無理だったでしょう。

忖度。

なにしろ、先生にしても、博論取ってる人が稀ですし、博論取っていても、論文博士で大作ですから、それと比較して、まさか、3年で同じもの取られた日には、なんだか釈然としないでしょうから。

出すわけないです。

いっぽう、昨今は、こまめに業績積んでないと、後がないですから。

DCでもPDでも、海外学振でも、さらに、就職でも。

さぼっていると、差がついてしまいますから。

(嫌でもラットの如く)頑張り続けるしかありません。

博士一年目となると、修論も終わり、なんとなく気が緩んで、さぼりたくなるものかもしれませんが、いまは、そこでさぼっている暇はありませんから。

着実に積み上げていかないといけません。

幸い、今年度から、博士の支援も増えてますけど、それにあまえてさぼっていたら、後がないのは同じ。

くっついてくる研究費をいかして、海外も含め、学会などに出ていくなりしないと、先は続かないのが(厳しいようですが)現実です。

かつて、H大ばっかり学振とおるなー、という印象をもった時期がありました。

先を見越して業績を着実に先生方が積ませていたからでしょう。

のんびり放任・放牧・遊牧のうちのT大は、さっぱり学振にとおりません。

そりゃそうです。

ちゃんと業績を積ませないと、論文の数で負けてますから。

(金もないけど無理にでも)海外の学会でも発表させて、英語の論文も書かせてあるのと、かたや、印仏研の日本語一本というのが二つ並べ書類審査で来たときに、どちらに旗をあげるかといえば、きまってます。(先生の発表に帯同させて旅費出したりという例もあったのかもしれません。うちはもちろんそんなの聞いたこともありません。)

そこは公平。

それ以外に客観的な指標というと、なかなか差がつきにくいものです。(研究計画の出来栄え、ということはもちろん、あるでしょうけど。それは、あくまでも、これからのことについての口約束ですからね。これまでの業績という点は、やはり、印象において大きいです。)

H大、そのおかげで、みなさん、なんだかんだ、続いている人も多いほうです。(もちろん、辞めた人も多いのは、どこも同じですけど。)

私と同じ年代のU野さん、そして、後に続く世代のK林さん、K尻さん、W邉さん。

しっかり就職。

我々の分野では、就職できるほうがレアですから。

続けていくのは至難の業ですから。

みなさん、実感しているところでしょうけど。

右も左もよーわからん修士・博士課程において、高みから先を見通せる教官・教員のアドヴァイスというのは、大きいです。

シャーストリー(教師)たるもの、自利利他円満でありたいものです。(実際には、余裕のなさから、我利我利亡者が多いのは、どこの世界も同じですけど。)
  1. 2021/11/26(金) 19:11:21|
  2. 未分類

自己反省もいいですが



あれこれ資料を読み込むのは面倒ですから、それをすっ飛ばして、さっさと言いたいことを言いたいというのは、人によってはあるでしょう。

自分の哲学を開陳したいということです。

好きにすればいいのでしょうけど、それは、その人の個性によってしまうので、学の継承としては難しいでしょう。

つまり真似するのが難しいものです。

才能に依拠するところが大きいですから。(それは時に耳にする「哲学は学べない」というのと同じです。分析の鋭さというのは、もう、最初から備わってたりするものですからね。なまくらの刀はいつまでたってもなまくらのまま、というのは、どうも、哲学的な分析においては、あるようです。悲しい現実ですが、現実ですから、直視したほうがいいでしょう。というわけで、安全牌として哲学史に移行する人もいるでしょう。)

その人の本来的な味によって、分析の切れ味が左右されますから。

いっぽう、学ぶことのできるもので勝負する場合には、じっくりと資料を用いて、積み上げていくことになります。

こちらは模倣可能。

もちろん、その先の分析の切れ味は、人それぞれですから、上の例と同じでしょうけど、しかし、どちらがより継承可能な方法かといえば、まちがいなく、後者でしょう。

模倣されうるもの。

それは教えられるもの。

つまり継承されうるものです。(いわゆる、哲学ではなく哲学史、ということになります。)

研究方法のスタイルの確立。

根本は語学力ということになりますし、読解力ということになります。

これは、訓練で着実に上昇します。(時間がかかりますが。)

T大で印哲に隣接する講座というと、宗教学ということになるでしょうか。

歴史的にもそうです。

しかし、特に宇井あたりからでしょうか、研究のスタイルはまったく異なるものとなります。

同じチベットを扱っても、中沢新一的なアプローチもあれば、普通に、テンギュルをあれこれの版をひっくりかえして考証するスタイルもあります。

まったく異なります。

中沢新一を真似しようと思っても、それは、多くの人には困難でしょう。

大学で学んで簡単に身に付くものではないでしょうから。(実際、『チベットのモーツァルト』的なものをマネできてるひとは見たことがありませんが、誰か、いるのでしょうか。)

したがって、凡人が地道にやるとなると、積み上げ型の語学訓練という後者の道をとるほうが安全でしょう。

才能に自信があれば前者でしょうけど。(たいがい、失敗するでしょう。)

そういえば、杉木さんは、T大宗教学出身ですけど、サンスクリット・チベットで、ごりごりと文献をやっていて、宗教学でも異質な存在となっていますし、結局、我々と同じようなことをやってます。(広大での所属は、いわゆる「印哲」の枠ではありません。)

密教のような「怪しげなもの」に最初は惹かれたんでしょうけど、しかし、そのインド密教をやろうと思うと、現段階では、どうしても、そうなりますよね、という気がします。

ハルにも習ってましたし。

ごりごりの文献学の博論を、主査の島薗先生は、どんな感じで見ていたのでしょうかね。




語学力、文献渉猟能力を最大限に活かしたのがサンダーソン教授の一連のシヴァ教研究の仕事でしょう。

碑文までおさえて、事実、事実で、すべて丹念に押さえていきますから。

結果として、研究スタイルの全く異なるアメリカでも、多くの追随者を出してますからね。(一時ペンにいたハルや、一時、東海岸や西海岸にいたソームデーヴの影響もあります。)

多くの弟子がいますし、さらに、孫弟子までいます。

ベンも、ハーヴァードでは、ヴィシュヌ教のクルーニーの弟子ですけど、しかし、サンダーソンに心酔して、博論では、すっかり、シヴァ教の方に振れてましたからね。(クルーニーも悲しかったでしょう。)

さすがに、あんまり細かいことをアメリカでやるとあれですから、序論的なところ、コロフォン的な著作冒頭のヴァースなどをメインの資料にしながら論じてましたけど。

サンダーソン教授の研究スタイルにも見られるように、一次資料の圧倒的な力というのは、説得力において、有無を言わさぬものがあります。

結局それは、次代への影響力という形で表面化していきます。

私が留学してたころは、まだ、サンダーソン教授――昔のオックスフォードの慣習で学位はBAのみです!――は、発表論文数も少なかった(そして著書はゼロ)ので、オックスフォード界隈では超有名でしたけど、日本では全然知る人も少なかったでしょう。

私も、ドミニクを通して初めてしったくらいです。

学部の頃はもちろん、修士になっても、全然、存在を知りませんでした。

本になってないと、海外までは、なかなか名前が伝わりませんからね。

そんなもんです。

耳にする部外者からの評価も、本があるとないとでは違いますし。

実力の雲泥の差など、部外者には、わかりようがないですからね。

アレックスのチュートリアルのSVアートマン章の講読に特別に参加させてもらいましたけど、圧倒的な読解力に、さすがにびびりました。(また、そのときに私が口を挟んだ解釈の一発目が、運よく当たってたので、えらく気に入られて、その後も、「Kはどう思う」とたびたび聞かれて、そのあとまではさすがに初見で見るテキストですし、自信がなかったので少し困りましたけど。ともあれ、あれだけの知性のほとばしりを目の当たりにできたので、えらい刺激になりました。インスパイアしかなかったです。チュートリアルは、一対一の特別なゼミですからね、特別にゲスト参加を許可してもらって、ほんと、感謝です。)

日本のとある先生とその当時はなしたときも、「サンダーソンは論文すくないから」みたいな否定的なコメントをしている人がいましたけど、外にいると(つまりサンダーソンと読んだことがないと)、わからないのは仕方ないでしょうね。

いまなら、誰にも文句いわせないほどの論文数があって、むしろ、「多い」という印象を与えるくらいかもしれませんけど。

すでにそのときは、それらの資料が多く「仕込まれ」ていたのですけどね。

講義では、そうした資料をハンドアウトとして出されていましたから。(もちろん、部外秘でしたから、外の人は知る由もありませんけど。)

で、何が言いたいかと言えば、説得力において、一次資料に勝る資料はない、ということでした。

そして、それは、次代への影響力という点で差を生む、ということでした。

事実を積み上げていくこと。

その上に、バランスの取れた歴史構築が必要となります(←この部分は、才能かもしれませんが、しかし、哲学よりは訓練可能なものです)。

Aの可能性2割、Bの可能性が8割という割合の時にも、バランスの取れた判断をすることが必要です。

逆張りの無理強いをするひとが、過去の論争を見ていると、よくいますけど。

もちろん、2割でも、可能性として完全に否定はできないわけですけど、どっちが歴史の流れとしてlikelyか、ということです。

全体を見る力ということになるでしょうか。

バシャムを見るまでもなく、イギリス式の場合は、そういう全体のバランス感覚というのは、得意な方なのかもしれません。

方法論的反省や解釈学的議論で第一章を言い訳で埋め尽くすある種の自己弁護も結構ですが、疑いようのない事実を資料に基づいて押さえてくれるほうが、説得力は――すくなくとも多くの人にとっては――あるでしょう。

全然関係のないギリシャ語の哲学文献や現代哲学の文献を持ち出して高みから比較するのも結構ですけど、事実としてその文献とつながっている証拠を持ち出してくれた方が、なんぼかましです。

prameyaはpramanaに依存するので、まず、pramanaについての自己反省が必要というのはそうですが、そればっかりだと萎えます。

私が知りたいのは我々自身が無意識に前提としている常識や、あるいは、西洋哲学で有名な(あるいは有名であるべき)何らかの知見ではなく、インドの哲学ですからね。

さっさとインドについて論じてくれ、と思ってしまいます。

源氏物語について知りたいのに、延々と英文学の話を冒頭でされたら「?」となるでしょう。

飛び道具としては面白いですけど。

ともあれ、博論というのは、就職のための重要なステップですから、そこで就職したければ、そこの流儀に従うべきでしょうから、そのようなスタイルを差し挟まざるを得ないのは仕方ありませんけど。

それやらないと、作法を踏まえない人として、端から切り捨てられてしまいますからね。

それっぽくやる、というのは、どこでも(就職するためには)重要です。
  1. 2021/11/26(金) 08:28:36|
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授業形態



対面が基本というか、本当は、対面じゃなければいけないんでしょうけど――通信制とは違いますから――しかし、ここまで普及してしまうと、いまさら、そのよさをいかさないという手はありませんから、授業によっては、オンラインのみというのもありなんでしょう。

その利点は、たとえば、非常勤における遠くの先生の招へいということにもかかわります。

リアルだと、非常勤も、毎週来れる人は限られますからね。

また、集中講義だと、どうしても、15回を一週間でやるということになりますから、やはり、毎週とはかなり違うものとなります。

オンラインだけでもオッケーという現状が、もし、今後も一部において許されるのであれば、非常勤の先生の選択肢はひろがるでしょう。

非常勤枠を使うのに、やはり、可能であれば、毎週の方が集中よりいいに決まっています。

しかし、糸島まで毎週来れる印哲関係者なぞ、数少ないですからね。

いずれ、コロナが収まった時には、「原則対面」「対面に戻すこと」みたいな声が大きくなるのかもしれませんし、実際、現状では、ハイブリッドという折衷策が多いような現実ですが、それは、先生にとっては対面で教室にいなければいけないことを意味します。

しかし、非常勤の先生の場合は、オンラインオンリーだけでもオッケーというようなことにしてもらえると、ぐぐっと選択肢が広がる気がしますけどね。

東京や関西圏なら、別に、ちょちょっといけばいいでしょうけど。

東広島もそうでしょうけど、糸島となると、やはり、人によっては――というか寮に住む以外の99%の人にとっては――、かなり遠いですからね。

非常勤の枠も減る中、地理的特性と人的資源の偏りにより不利をこうむってしまうことを解消するのに、ネットは最適な解決策ですが、どうも、そのようなことは、あまり考慮されないんでしょうかね。

なにしろ、身の丈発言を見るまでもなく、首都圏中心の発想が往々にして政策をたてるにあたっては念頭に置かれますからね。(まあ、いずれ、文科省から、4月以降の授業形態の在り方について、なんらかの指針が示されるのかもしれませんが。なにしろ、授業料施設料返還云々の話が一部の私大で問題になってるくらいですから、ことを収めるには、ハイブリッドということになるでしょうし、それは、先生にとっては対面で教室にいることを意味することになります。)

対面に戻せという意見が多くを占めるかと言うと、現実には、うちの場合、たとえば、ハイブリッドにすると、実際に教室に来るのは10人登録者がいても1人とかだったりしますからね。

それが何を意味するのか。

つまり、わざわざ遠くまで高い交通費かけてきたくないというのが、共通する本音ということでしょう。

慣れちゃいましたからね、オンラインに。

もちろん、対面のよさは、みなさん、意識しつつもでしょうけど、では、いざ、ハイブリッドでやると、現実問題として、そういう結果になるということは、現実主義の立場から冷静に見るべきでしょう。

どう考えても、全部全部、対面オンリーということになるようには思えません――なぜならオンラインのほうがいいという学生は必ず一定数いると思われるので。

というわけでのハイブリッド。

しかし、非常勤の選択の幅という視点からみると、それはまた、ベターな方向にいける道を、不必要にふさぐことになってしまいます。

まあ、あくまでもオンラインは、その場しのぎの弥縫策というのが原則的な立場でしょうけど、しかし、思い切って原則を見直すことも必要かもしれません。

対面という原理原則にこだわっていると――つまり通信制とは違うのだ、という表面にだけ囚われていると――、本質を見失うことにもなりかねません。

すべては学生の教育の質向上のためにありますから、質の高い教育が提供できるのであれば、その形態だけにこだわるべきではないでしょう。
  1. 2021/11/23(火) 17:36:03|
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ネワーリーカジャ



吉塚近辺に三店舗あるLさんの店、ナングロガルでネワーリーカジャ1000円。

ほかは、ジル&モモ、それに、吉塚商店街の中のブッダ。

ブッダは、祝日は商店街が休みの為でしょうか、休み。

日曜も休みですけど。

そんな吉塚商店街。

空いたよさげな民家がありますけど、なんと、ギシンさんの食材店(これまた「ギシン」)となってオープン。

名前はどこにも出てませんけど。

送金屋の旗がたなびいてます。





食材スペースは狭いですが、奥はバーにするそうです。

ちなみに、ネパール食材屋は、ギシンだったところが、ちかくに一軒あります。ミニマート。

レストランは、ルンビニと、マナカマナの吉塚店もあります。

ここらへん、学生が多いだけに、濃度が高いです。

ナングロガルでは、祝日だからでしょうか、学生が10人で昼間からパーティーをしていました。

少し後から入ってきたネパール人女学生二人は、食事が来るまで、携帯で音楽かけながら窓際で踊ってました。

くつろげる空間のようです。

やはり、独り者の学生から、世代を経て家族連れが増えることで、食材屋の需要が増しているという背景が(需要という側面から見ると)あるのでしょう。

食材屋が多いですからね。
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嘘を嘘だと知りながら喋る人



自身の世の中の見方を変えてくれる教え、というのを法といっても、まあ、いいでしょう。

幻術師と素人の見方は、同じものを見ていても、異なります。

嘘を嘘だと知っているのが幻術師。

目の前に象が出現していても、それが嘘だと分かっているわけです。

映画を見ても、我々は普通、アバターなりの世界が嘘だと分かりながら、それを高みから眺めて、あるいは、あえて中に没入して楽しんでいます。

幼い子供なら、本当にそれがあると思い込んでしまうかもしれませんが、それが現実の凡夫の見方。

本当にあると思い込んでしまうわけです。

abhuutaparikalpaがあり、さらに、baahyatvaのadhyavasaayaなりaaropaなりがあるわけです。

非実在の増益(ぞうやく)、でっちあげです。

外界対象性を付託してしまうわけです。

同じように、仏陀(覚者)も、嘘の現象を嘘だと分かりながら、同じものを見ながらも、違う意識で、それっぽく生活するわけです。

そこに錯誤はないわけです。

なぜなら、嘘を嘘だと分かっているから。

同じく言語を用い、それの前提となる分別知がそこにあっても、それは問題ではないというのが、仏教徒の言い分です。

ある種、ひっくりかえしていえば、詐欺師が詐欺と分かりながらぺらぺらと嘘を言うのと同じ現象です。

本気で思い込んでいるわけではないわけです。

ある高みへと導くために嘘の言葉をあえて用いるわけです。(仏教においては、早くから、言葉というのは嘘であると喝破されてきました。真実は語られえないものanabhilaapyaです。)

対機説法。

詐欺師も同じです。

相手のレベルに合わせて方便を用います。

目指す高みが利他であれば仏陀であり、逆に自利であれば詐欺師ということでしょう。

壮大な経営プランを滔々と語る投資詐欺の人は、ある種、仏国土を荘厳しているのとパラレルな感じがあります。

作りはなしの壮大さ。

聖典が言語で綴られ、しかしながら、言語が分別知という本質的に錯誤した認識を前提とするという問題に対しては、このように、冷めた意識を導入することで回避するというのがひとつ。

あとは、車輪の余力の勢いのように、全自動で、勝手に壁からでも説法が出てくるという「便利」な説明方法がひとつ。

如来は、そもそも人間じゃないですから。

どこからでも勝手に教えが流れ出してきうるわけです。

増上縁。

離れていても働きうるわけです。

悪い例で言えば、相手の意識を乗っ取って、白昼夢でも見せる鬼みたいなものです。(そういえば、無限列車の魘夢も、相手の意識を乗っ取っていましたけど。)

あとは、仏陀の悟りである、もともとの対象知覚は分別を離れていて正しいから、それに基づく認識は、たとえ分別知であっても、もとが正しいから正しいのだ、というように、後得清浄世間智を立てるのがひとつ。

これは、いまいち説得力ないですけど。(しかし、仏教としては、これを立てざるを得ませんね。)

清浄と世間とは矛盾しますからね。(クマーリラのいう、sa.mv.rtiとsatyaの矛盾と同じです。)

クマーリラが全く別の文脈でいうように、犬の革袋に入れてしまったミルクは、汚くて飲めたものではないでしょう。

しかし、言葉を離れて聖典など成り立ちようがないですからね。

毒で毒を消すような、そんなことを言うしかありません。

竜樹の仕事はそういうことでしょう。

言葉というものが信頼ならないものだ、真実を指しえないものだ、という高いハードルを最初に設けてしまったために、その制約の中で聖典論を組み立てていく作業が大変になってしまったのが仏教です。

逆に、その苦労(言ってしまえば当時の苦悩する学者の悲劇)が面白さを生み出しているわけです。

がんじがらめの教理教学の中で活路を見出す学匠の工夫をながめること。

それが仏教の聖典論の楽しみ方ともなります。

二諦説が大切なのは、それが、無理に無理を重ねた結晶だからでしょう。

まあ、上中下という「中」がどうしても、必要になりますからね。

上と下をつなぐためには。

パラー、パラーパラー、アパラーの三女神のセットみたいなものです。

三性説の依他起というのも、そうした中間的なあり方ですからね。

シャイヴァシッダーンタでいえば、マーヤー以下の汚れた世界を生み出すアナンタが、汚れ仕事を引き受けるわけです。

財務省の上と下の中間の人が苦悩・苦労するのと同じです。

上からの命令と下からの要請の間で完全に矛盾した仕事を調整するわけですから。

世俗諦(嘘でありかつ真実)というのは、そうした存在でしょう。

アヌマーナという推論に基づく知(言語知も含む)も、錯誤してはいるが結果オーライだからプラマーナであるという、ある種、両義的な存在です。

言葉であるという点で本質的に錯誤しているんだけと、元の情報源(仏陀の悟り)が正しく、また、言語化するまでの途中の介在ノイズ(嘘つく不純な動機である騙してやろうなどという気持ちや無能力がゆえの情報不足や誤認の可能性)もないので、従うと結果いいことがあるという耳寄り情報を提供するのが聖典というプラマーナだということになります。
  1. 2021/11/23(火) 11:55:48|
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Ratnakara reading session 18

https://ratnaakara.weebly.com/



中観派との論争の中で、有相唯識の学匠Jが、自己認識の肝のところを解説してくれています。

解深密経の引用もあり、まさに、もっとも大事なところをおさらいしてくれていますから、重要なところです。

サンスクリットで読むと、別に、何も難しいことを言っているわけでもありませんけど、文法的な解説も入りますから、サンスクリット以外の言語で見ると、たぶん、不要に難しく感じるでしょうね。

面白いことに、Jによれば、自己認識すること=対象を見ること、というようになりますから、それで、すべての引用を解釈していきます。

若干、なんでもありの感じになってます。

アビダルマからの引用も、それで再解釈しています。

原文からすると、かなり無理があります。

さすが巨匠です。

sama"ngiiも、sa.mvediiの意味で解釈せよ、とのこと。

いやはや。

当然ですが、行為・行為参与者の枠組みで認識を捉えてはいけないと、口を酸っぱくしていいます。

把握主体・被把握対象があるわけではありません。

解深密経の言う通りです。

実際には心がそのように生じているだけです。

えーこといいますね。

認識論の枠組みを、文法学の基本の基本の行為・行為参与者に基づくものから、単なる縁起の世界に基づくものへと、がらっと変えているわけです。

行為・行為参与者の枠組みを真っ先に否定する竜樹の延長線上にある枠組み変更です。

唯識という目で見ると、世界は全く違って見えるということです。

行為・行為参与者を基本軸とするサンスクリット語の枠組みの中で考えると決して見えない世界が唯識世界(心が生じているだけの世界)なわけですけど、それを、サンスクリット語それ自体を使いながら、説明していくわけです。

言葉によって言葉それ自体の枠組みの桎梏・呪縛を超えていくという作業になります。

泥から生じる蓮のような至極の言葉になります。

我々――サンスクリット語で思考するしかない人――の認識の限界を指摘する作業です。

サンディをニルモーチャナするとは、うまいこと言いましたね。

言葉(サンスクリット語)に縛られた思考の縛りからの解放こそが、唯識の他学派批判の肝でしょう。

この意図をわからないような人は、おそらく、中論の批判意図も取り違えてしまうのでしょう。

縁起の空にせよ、その唯識ヴァージョンにせよ、世界認識のOSそのものが異なるので、世界観の根本的な変換が必要になります。

ここらへんのことは、次の論稿で考えを過去にまとめています。

https://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~kkataoka/Kataoka/Kataoka_Kei_2017c.pdf

なお,本日読んでいるあたりのJNAについては,新井一光さんの研究があります.(『ジュニャーナシュリーミトラ研究』,山喜房佛書林,2016年.←新井さん,ご恵送いただきありがとうございました.)

和訳を見ると,かなりハルの理解とは異なっているようです.

例えば,yujyateは,「理に適っている」であって,新井さんの言う「~に結び付けられる」(p. 109)ではありません.

テキスト校訂――現在Hejung師がやってます――も含め,やり直す余地は――どのような研究でもそうですが――あるでしょう.

例えば新井さんの訂正agner (p. 90)ではなく,異読に挙げられているように,写本通りのagerが明らかに正しいです.

したがって,訳も,新井さんの「火」ではなく,「動詞語根ag」となります.

いずれHejung師がテキスト・英訳を出すでしょうから,何が正しいかは,学界の場で広く明らかにされることでしょう.(いまでも既に資料としてアップデートしつつ公開されていますから,最新の試行版が誰でもダウンロードできます.)

Jは校訂も含め難しいですから,無限のトライ&エラーの挑戦になるのは致し方ないでしょう.

それが楽しめる人でないと,Jなんぞ読まないでしょうし.

ちなみに,今回の動画,桂先生が珍しくコメントを入れています.

ディグナーガも引用する有名なところのパラレル(変形句)ですからね.

Jですが,結構,引用の形が適当で笑えます.(この箇所は既に変形後のPVAからの孫引きですけど.)
  1. 2021/11/22(月) 08:17:01|
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実在する普遍を立てずに共通性の認識を説明するダルマキールティの工夫



ニヤーヤ・ヴァイシェーシカの普遍実在論であれば,牛性という実在する普遍を認めるので,個物としての牛1と牛2に共通する普遍である牛性を,有分別知覚がダイレクトに知覚すると考えれば説明が付きます.

牛性という普遍 <ーーー 有分別知覚「牛」
 |    |
牛1    牛2

仏教では,実在する普遍を認めません.

したがって,それにかわって,他からの排除を立てます.

ダルマキールティによれば,他からの排除にあたるのは,「牛」という同じ反省知を結果としないもの(非牛)からの異なりのことです.

これが共通性として機能します.

また,分別知の対象である認識内の形象(実際には認識そのもの)は,外界の牛と同一視され,牛だと思いこまれます.

実際には,内的形象を対象としているにもかかわらず,「これは牛だ」と,外の牛を対象としていると思い込むわけです.

もちろん,共通相を捉えるのは分別知であって,知覚ではありません.(したがって,有分別知覚なるものは認めません.)

                    内的形象
                      ||
牛1 ⇒ 新得経験 ⇒ 潜在印象 ⇒  分別知 「牛」

このような分別知は,個物たる牛1の新得経験が残した潜在印象から生み出されます.

つまり,間接的には牛1という個物につながってはいるわけです.

このプロセスにより,認識内形象が外界対象である牛と思いこまれるわけです.

「(認識は)Xの新得経験に置かれた潜在印象からの発生という本性により,Xだと思い込まれた自体を有する」とダルマキールティは表現しています.

したがって,間接的ではありますが,牛1と牛2に,ある種の共通性ーーーそれ以外からの異なり――があるという図式にはなります.

他からの異なり <ーーー 「牛」分別
 |    |
牛1    牛2

しかし,それは,潜在印象を通した結果を生み出すプロセスを必要とします.

実際には,他からの異なりを対象としているにもかかわらず,同一の結果である「牛だ」という反省知を生み出すので,内的形象を外界対象と思い込んで,同じ外界対象を把握していると思い込むわけです.

牛1も牛2も,同じく「牛」と分別されるのですが,別にそこに,牛性なる普遍を立てなくとも,共通性の認識の説明はつくわけです.
  1. 2021/11/19(金) 22:22:36|
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バンガロールの夜



ひとりで旅行するとなると,当然ですが,自分だけが頼りです.

倒れたら終わり.

ゲームオーバーになるのが目に見えてます.

日本なら誰かが助けてくれる可能性が高いでしょうし,警察も救急車も頼りになるでしょうけど,天竺で,しかも,普段住んでる地元――知り合いがいるところ――を離れるとなると大変です.

財布でも盗まれでもしたら,いったい,どうやって地元まで戻るのか,方法を考えるだけで,緊張が高まります.(念のため,最低限戻れるだけの汽車賃を別分けにしてズボンのポケットに入れておきます.)

まだティルパティにいたときだったでしょうか.

マイソールに.

写本調査です.

バンガロール経由.

しかし,すっかりインドも慣れてきていたので,パスポートを携行するのを忘れてしまいました.

なんとかなるだろうと思いきや,なんともなりませんでした.

地方都市のティルパティと違って,大都会.

なあなあでは通じませんでした.

きっと,警察のチェックもうるさいのでしょう.

外国人はパスポートをチェックするように,かならず言われているのでしょう.

営業許可のライセンスも絡みますから,外国人客のひとりやふたり,断りますわな.

まともなホテルは断念.

しかたないので,戦略をかえて,ぼろそうな,人気なさそうな宿を探します.

汚な目の手ごろなのがあったので,受付にいくと,セーフ.

パスポートを請求されることもなく,そのまま通し.

外国人かどうかも聞いてきません.

ティルパティの住所を書いて終わり.

200ルピー.(ティルパティなら100ルピー切るぞ,と思いましたけど,大都会ですから,おんぼろでも,そこそこ取ります.しかも他に可能性がなさそうなのですから,交渉する余裕もこちらにはなし.藁にも縋る気持ち.むしろありがたい.)

通された部屋は,ベッドがやばそうな感じでした.

なにしろ,前に寝た人の人型がシーツにくっきりついているような状態.

従業員が昼寝でもしてたのでしょうか.

疲れたのでさっさとねます.

もぞもぞ

もぞもぞ.

全身も顔も,すごいかゆいので,鏡を見て焦ります.

ぱんぱんに膨れてます.

虫に刺されて,もう,このまま,ショックで死ぬのではないかと諦めたほど.

一巻の終わり.ジ・エンド.

夜のバンガロールにて終了.

悪霊にでもとりつかれた夢か幻かと思いましたが,現実でした.

このままベッドに戻るわけにもいかず,しかたないので,もっとも安全そうな石の床にダイレクトに寝ます.

さすが,安宿だけあります.

ベッドの汚さをなめてました.

日本からなら,もうちょっと厚手のジャンパーを携行してきていることが多いので,それをベッドとの間にしくか,それを着て寝るので,まだ,虫刺されを防御できますが,ティルパティからですから,ジャンパーなど,そもそも持っていません.

薄いシャツのみ.

そりゃ,刺され放題になるわけです.

大都会の厳しさを知りました.

やはり,なんでも融通が利く地方都市がいいです.

翌朝には,さいわい,顔の腫れは引いていました.

しかし,冷たい石にダイレクトに寝てますから,さすがに,ほぼ寝れてませんでした.

それ以来,パスポートを忘れることはなくなりました.

また,ベッドの汚そうなところは,さすがにパス.

つぎは,アナフィラキシーで死ぬかもしれませんからね.

それ以来,バンガロールでの乗り換えは,泊まらずに,すぐにマイソールに行くようにしています.
  1. 2021/11/18(木) 08:10:33|
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PJからのメール



Routledgeからの仏教著者まとめ本,編者のひとりで,わたしの担当のPJから,「2022年には出るから~」ということでした.

いま,イントロ書いてる,とのことでした.(いまごろ書いてるんか,と思いましたけど,たぶん,すんごい遅い人がいたから,そこまで待っていたのでしょう.)

コロナコロナで,さらに遅くなりましたからね.

最初に話がきて,いつ出したか,すっかり忘れてしまいましたけど,えらく昔に書いた気がします.

ともあれ,みなさん,エディット仕事,ご苦労様です.

乗っからせてもらう身としては,ありがたいことです.

わたしのほかにも,日本人,すくなくとも,M山はいました.

ほかにもいた気がします.

M山は,Prajnakaraについて.

わたしは,Dignagaについて.

服部先生・桂先生のような大先達がいて助かりました.

にしても,英語で一般向けとなると,ハードル高いですからね.

あんまりやりたくはないです.

もうちょっと専門家向けのほうが,かみ砕かなくていいので,楽です.

しかし,こういう本に出す論稿って,どういう業績に位置づけられるんでしょうか.

文系の業績評価というのは,理系とは指標がちがいすぎて,簡単にはいきませんね.

査読論文ではないですから,査読の有無だけで切ってしまうと,「無価値」となりかねません.

影響力やパブリシティという点でいえば,(すくなくとも私の中では)かなり重要ですけどね.

まあ,影響といっても,この先何十年という長いスパンで見た話であって,すぐに引用されるというようなわけにはいかないでしょうけど.
  1. 2021/11/16(火) 20:36:31|
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シャーマンの論文の核

つまるところ,サンダーソンへの援護射撃,という感じでしょうか.

Sが,いくつかの文献に関して,シャイヴァ→密教への基本的な流れを示したのに対して,D氏が反論.

Dは,共通ソースや相互影響というような感じで,どうしても,シャイヴァから仏教が借用している流用しているということを認めたくないわけで,むちゃくちゃにサンダーソンの論を批判しているのにたいして,シャーマンは,落ち着いて,ブラフマヤーマラとラグシャンヴァラから文献証拠をさらにあげてます.

細かく見ると,どっちからどっちに流れているのか,というのは分かりますからね.

消し忘れとか,いろいろな証拠がありますから.

こっちではフィットするが,こっちでは,切り貼りしたがためにフィットしないとか.

まあ,学生のレポートが,切り貼りすると,どこかに,痕跡が残るのと同じです.

こっちがオリジナルで,こっちが切り貼りしたほう,と分かるものです.

別に,借用でいいじゃないか,という気もしますが,そこらへん,オリジナリティというような視点から入ってしまいがちですから,うちの仏教文献がそんなことするわけねーだろ,というような憤慨を呼び起こしてしまうのでしょうね.

コピペ文化は普通ですから,そこらへん,なにか,剽窃が悪いというような現代的視点を持ち込むべきではありません.

流行ものは節操なく取り入れる,というだけです.

別に悪いことじゃありませんから.

ソースが明らかになることで,こちらではどうしても意味不明だったのが,どうして意味不明なのか,よくわかるようになって,ハッピーですけどね.

文献の生成.

あっちからとって,こっちからとって,それを,仏教風にアレンジしなおして,ということです.

辞書項目の担当とか,あっちこっちの参考文献からの切り貼りと言い換えと,うまいまとめですからね.

オリジナルの一次資料にあたって,いちいち調べてるわけではないでしょう,たいていの場合.

おなじことです.

AからBということをいうと,大概,いやいや,AとBに共通するソースがあるとか,あるいは,逆に,BからAもあるとか,いろいろと反論したがる人が登場するものですが,その場合,なんか,別の動機に侵されていることが多いですからね.(しかも,想定しまくりで,オッカムの剃刀に反します.)

素直に文献読みましょう,そして,そこから導かれるもっともシンプルなそれらしいモデルを想定しましょう,という話です.

ともあれ,研究史の一コマとして,このシャーマンの論文は面白いです.

そして,もちろん,内容的に,女神信仰に興味があるひとには,(とくに前半は)とても勉強になります.
  1. 2021/11/16(火) 19:13:10|
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インゴールズ→原實

https://berd.benesse.jp/berd/center/open/kou/view21/2009/02/05chu_manabi_02.html

インド学を学ぶ中で素晴しい先生方と出会いました。大学3年間で中村元先生から基礎を叩きこまれ、旧制大学院では辻直四郎先生から学問の方法論を学びました。そして偉大な学者は自分の「学問の型」を持っているということを知りました。2年後に私はハーバード大学に留学しました。大学図書館には貴重な研究書や雑誌が整備されていましたので、毎日図書館に通って研究書や論文の文献目録を作ることにしました。
 ところが、留学2年目に自分の学問を全面的に否定される出来事が起こりました。「直ちに目録作りを止めよ。他人の研究書を読む前に、原典に体当たりして自分の解釈を持て」と直属の研究室のインゴールズ先生にひどく叱られたのです。
 それまでの私は西洋の一流の学問を日本に紹介すればよいと思っていました。日本ではインドや西洋の学者に肩を並べ研究を発表することなど、要求されていない。およそ自分には出来ないことと思っていたので、どうしたらよいのか全く途方に暮れてしまいました。



次の世代に向けた「えー話」が紹介されてます.

その当時からしたら,そうでしょうね.

仏教ならともかくも,インド学となると,日本では,まだまだ幼稚な時代ですし.

日本の中では,まだまだ,横を縦にで十分な時代ですから.

オリジナルの貢献など,思いもよりませんし,ましてや,むこうの図書館の圧倒的な蔵書量を見たら,まずは,これらを日本に整理して紹介せねば,と思うでしょうね.誰だって.

しかし,結局,向こうの人と肩を並べて,同じ土俵で戦うとなると,同じように,オリジナルの一次文献から出発しなければ意味はありません.

横を縦にするだけの人材に終わってほしくなかったのでしょう.

まじめにやる日本人ですから,インゴールズも,そこらへん,見抜いたのでしょう.

下手すると,忠実に二次文献ひっくりかえしてなぞるだけで,終わってしまいますからね.

さすが一流の先生は違います.

1953年東京大学文学部印度哲学科卒業、同大学院で辻直四郎に師事。満期中退後に、1960年より東大文学部専任講師
http://www.kotoba.ne.jp/word/10/%E5%8E%9F%E5%AF%A6



とありますから,総合すると,1955年頃に留学に出かけた,ということでしょう.

ちなみに,

伊原照蓮は,1944年東北帝国大学法文学部文科印度学科卒業,1951年九州大学講師,1954年に助教授となる.1955年の干潟の退官後,1956年8月より1958年7月までハーバード大学およびインドに出張.


ですし,また,

この時期,院生のインド留学は盛んで,戸崎宏正がナーランダ(1955--1958)


なので(http://kaula.blog110.fc2.com/blog-entry-1441.html),1955年頃は,みなさん,戦後も落ち着いて,ようやく海外留学に行き始めたころなのでしょう.

しかし,ということは,伊原先生が訪ねたときに,原先生はハーヴァードにいた,ということになりますね.

どんな交流があったんでしょうか,あるいは,没交渉だったんでしょうか.

なんとなく,なさそうな気もしますけど.
  1. 2021/11/16(火) 18:26:30|
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越境

わたしがメインにしてきたのは論争史というもの.

たとえば,ミーマーンサーと仏教の間.

結構,面白いです.

たとえば,時間はズレてますけど,ディグナーガとクマーリラ.

同時代で言えば,クマーリラとダルマキールティ.

はたまた,継承やうねりや反発という意味では,クマーリラとジャヤンタ.

いずれも,いわゆる通常の学派史を超えた展開です.

仏教,ミーマーンサー,ニヤーヤ.

仏教というアンチテーゼがいるおかげで,思想的展開が面白くなっているわけです.

なにしろアートマンから否定しますからね.

一筋縄ではいきません.

刹那滅ですし.

実体的な思考法のバラモン思想家からしたら,「えっ,そこから議論しなきゃですか?」となります.

その分,根源的な議論が展開されて,おもしろいわけですが.

同時代に様々な宗派,学派がせめぎあっている状況があります.

そのようなせめぎあいの中では,相互影響もあり,いわゆる「借用」もあるわけです.(色のついた言葉でいえば「パクリ」です.)

クマーリラとダルマキールティとか,学派体系変換をかけてやれば,結局,同じこと言ってますしね.

同じ所にたって,それぞれの立場から言ってるわけです.

ぎゃーぎゃーいってるけど,なんだ,通じ合ってるやん,という読み方もできます.

ディグナーガよりも,二人のほうが,よっぽど近かったりします.

時代です.

同時代.

シャイヴァと仏教の密教も同様.

せめぎあいのなかで,交流というか,いろいろな相互影響というか,どちらかというと,シャイヴァから密教への影響が見られるわけです.(つまり,仏教のほうが,ちょいちょいお借りしているわけです.)

並行関係.

あっちにあるものが,こっちにもある.

流行は取り入れるにしくはなし.

というわけで,当然ですが,密教には様々なシャイヴァ要素が見られるわけです.

女神信仰.

ヨーギニータントラとヨーガニルッタラタントラ

それとパラレルが見出されるのがシャイヴァのヴィディヤーピータ文献群.

細かく見ていけば,どっちからどっちに流れているかは,まあ,わかるわけです.

シャーマンの論文は,サンダーソン教授の提唱したこうした見方を,主に,シャーマンの文献であるブラフマヤーマラから見たものです.

というわけで,密教というと,密教の中だけで閉じて研究してきた長い歴史があるわけですけど,シャイヴァも見なければ分からないという状況になってきているわけです.

仏教論理学も同じ.

そこだけ見てても,立体的にはわからないわけです.

シャーンタラクシタのタットヴァサングラハを見るまでもなく,クマーリラの影響は明らかですからね.

そもそも,最初に爆弾をしかけて他学派をテロったのは,ディグナーガですし.

それへの報復.

応酬の嵐.

仏教とミーマーンサーの間で延々と論争が続くわけです.

同様のことが,儀礼世界でも起こっているわけです.

こっちは,時代的には,圧倒的な勢力のシャイヴァからの流用という方向になりますけど.

ともあれ,文献を追うには,学派の越境が必要.

大変なわけです.

あれもならって,これもならって.

仏教だけでひーひーなのに,さらに,ミーマーンサーやニヤーヤまでも勉強しなければなりませんから.

というわけで,誰も踏み込んでこなかったわけです.

クマーリラ研究とか,わたしが始めたころは,ほんと,すくなかったですからね.

クマーリラとかいっていても,実際には,パールタサーラティだったりしますし.

そんなもんです.

オリジナルのテクストまで遡ると,かなり面倒ですし.

校訂も怪しげ.

あれこれと面倒くさいわけです.

シャイヴァ研究も同じ状況.

写本からです.

当然ですが,おいそれと手を出して「比べる」というわけにはいきません.

まずは,校訂から始めないといけませんからね.

AとBを比較する,というのは,やはり,AとBが既製品としてそろってないと無理なわけですが,AもBも写本で眠ったままだったりするわけですから大変です.

そういう現実を直視する必要があるでしょう.

「エジプト学にあらず」とか言われても,しかし,文献を発掘して校訂せんことには,なにも始まりませんからね.

オリジナルの貢献とは何か,ということを考えると,最先端に立つということは,結局,そういう地道な作業から入るしかありません.

二次文献ひっくりかえして,すでに知られていることをまとめて整理して日本語にするだけなら,まあ,楽なものです.(学部生のレポートとかは,本質的には,多くの場合,そういうものです.)

そっちのほうが読みやすいので,よっぽど,世人には受けるでしょうけど.

  1. 2021/11/16(火) 08:17:13|
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ダーキニー

えらく楽し気な話をシャーマンがあれこれ紹介してくれています.

Hatley 2016: 7:

Representations of the ḍākinī as a vampiric, śākinī-like being also find expression in period non-tantric literature, especially the Kathāsaritsāgara of 11th-century Kashmir. The colorful yoginīs of its tales range from powerful goddesses to impetuous, even vile “witches” as well as virtuous and accomplished female tantric adepts.21 Reflecting yoginī taxonomies from tantric Śaiva literature, those referred to with the epithets ḍākinī or śākinī are invariably malevolent, while yoginīs not given such qualifiers are benevolent, or at least ambivalent. The yoginī Citralekhā, for instance, utilizes her prowess in flight to facilitate the union of the princess Uṣā with Aniruddha of Dvāravatī.22 Another well- meaning yoginī instructs her friend in mantras for turning her illicit lover into a monkey, and for restoring her pet to human form on demand.23

(訳はdeeplのもの)
吸血鬼やシャーキニーのような存在としてのダカーキニーの表現は、タントラ以外の時代の文学、特に11世紀のカシミール地方のKathāsaritsāgaraにも見られる。その物語に登場するカラフルなヨーギニーは、パワフルな女神から、気性の荒い、下品な「魔女」、そして高潔で熟練したタントラの女性達まで様々である21。例えば、ヨーギニーのシトラレクハーは、その飛行能力を利用して、ウーシャー王女とドヴァーラヴァティーのアニルッダとの結婚を成功させた22。別の意味深なヨーギニーは、友人に、不倫相手を猿に変え、要求に応じてペットを人間に戻すためのマントラを教えている23。


In contrast, the ḍākinī Kālarātri, the grotesque and lusty wife of an orthodox brahmin teacher (upādhyāya), possesses the power of flight through mantra-practice and consumption of human flesh, and acts secretly as guru to a coven of ḍākinīs.24 Another story tells of a weary traveller who unknowingly accepts the hospitality of a śākinī. He thwarts her attempt to use enchanted barley to turn him into a goat, but ends up being turned into a peacock by the butcher’s wife, a “wicked” (duṣṭa) yoginī.25 Elsewhere, a jealous queen, a greedy female renunci- ant, and clever barber conspire to make the king think his newest bride is secretly a ḍākinī, who sucks out his vitals whilst he sleeps.26 Book seven tells of Bhavaśarman of Vārāṇasī, who had an affair with a fickle brahmin woman, Somadā, a “secret yoginī” (guptayoginī, 150d) of the worst sort—a “petty śākinī” (kṣudraśākinī, 168b) who eventually turns him into an ox. After his sale as a beast of burden, the yoginī Bandhamocinī spots him and restores him to human form.27

対照的に、正統派ブラミン教師(upādhyāya)のグロテスクで淫らな妻であるカーラーラートリ(ḍākinī Kālarātri)は、マントラの修行と人肉の摂取によって飛行の力を手に入れ、密かにカーラーラートリの集団の教祖として活動している24。疲れた旅人は、魔法の大麦を使ってヤギに変えようとする彼女を阻止するが、肉屋の妻である「邪悪な」(duṣṭa)yoginīによって孔雀に変えられてしまう25。他にも、嫉妬深い王妃、貪欲な女人禁制者、賢い理髪師が共謀して、王は自分の新しい花嫁が密かに寝ている間に命を吸い取っているダカーキニーであると思い込ませる26。(ソマダーは、「秘密のヨーギニー」(guptayoginī, 150d)と呼ばれる最悪のタイプで、「ちっぽけなシャーキニー」(kṣudraśākinī)である。(が、彼を牛に変えてしまう。重荷として売られた後、ヨギニーであるバンダモシニーに見出され、人間の姿に戻される27。

In another, parallel episode, a certain Vāmadatta discovers that his wife, Śaśiprabhā, is secretly both an adultress and a śākinī. Caught in the act with a herdsman, she turns her enraged husband into a buffalo, beats him, and sells him off. A “perfected” (siddhā) yoginī, however, recognizes him in animal form and restores his humanness, eventually imparting to him the vidyā-mantra of goddess Kālasaṃkarṣaṇī, the supreme deity of Krama Śaivism.28 In these tales, the yoginī/ḍākinī dichotomy functions virtually to demarcate the ‘good witch’ from the ‘bad’, echoing yoginī taxonomies of Tantric Śaivism. In light of this, it is remarkable that the categories came to be largely interchangeable in the Vajrayāna Yoginītantras.

並行して行われた別のエピソードでは、あるヴァーマダッタが、彼の妻であるシュアシプラバーが密かに愛人とシャーキニーを兼ねていることを知ります。妻は牛飼いとの行為を捕らえられ、怒った夫を水牛に変えて殴り、売り飛ばしてしまいます。しかし、「完全な」(siddhā)ヨギーは、動物の姿の彼を認めて人間性を回復させ、最終的にはクラマ・シュアイヴィズムの最高神であるカーラサエンカルシャニー女神のヴィディヤーマントラを彼に授ける28。これらの物語では、Yoginī/ḍākinīの二分法は、事実上、「良い魔女」と「悪い魔女」を区別する役割を果たしており、タントラ・シュアイヴィズムのYoginīの分類と同じである。このことを考えると、金剛界のヨーギニートラにおいて、このカテゴリーがほとんど互換性を持つようになったことは驚くべきことである。

  1. 2021/11/15(月) 18:21:49|
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シャーキニー

Hatley 2016: 7:
A female who, for the purpose of shapeshifting, ever drinks the fluids of living beings after drawing them close by artifice, and who after obtaining [that fluid] slays the creatures—she should be known as a śākinī, ever delighting in dreadful places.18



deeplで自動翻訳すると,

変身するために、人工的に生き物を引き寄せてその体液を飲んだり、体液を得た後にその生き物を殺したりする女性は、恐ろしい場所に喜びを感じていることから、シャーキニーと呼ばれるべきである18。



原文は,

Netroddyota, quoted in the commentary on Netratantra 2.71:
chalenākṛṣya pibati kṣudrā prāṇipayaḥ sadā |
rūpaparivartanārthaṃ labdhvā pātayati paśūn |
śākinī sā tu vijñeyā raudrasthānaratā sadā |



にしても,by artificeが翻訳できないのは意外です.

そんな難しくないはずですけど.

シャーマンは,kṣudrāを訳してないようですね.
  1. 2021/11/15(月) 08:15:00|
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憑き物

修士のN君とアーユルヴェーダの憑き物グラハを読んでますけど,結局,こういうのも,女神信仰の淵源のひとつになっているので,宗教史を見ていくのに,アーユルヴェーダ文献も,なにしろ古いですから,重要ですね.

なんでもつながってます.
  1. 2021/11/15(月) 08:10:53|
  2. 未分類

中観派

シャーマン,次の所は,紹介の仕方が間違ってますね.

仏教は不案内でしょうから,間違いますよね.

A tantric tradition foregrounding ḍākinīs first comes into evidence in the seventh century, it seems, when the Mādhyamaka philosopher Dharmakīrti makes critical remarks concerning Ḍākinītantras and Bhaginītantras.



あと,Madhyamakaはありますけど,伸ばしたいなら,Maadhyamikaになるでしょうね.

そういえば,ゲルク派のゲシェは,ダルマキールティも本心は中観派かもと仰ってましたけど,まあ,最終的には,カマラシーラみたいにもっていけるわけですからね.

そう言ったって,カマラシーラ的には間違いではないかもしれません.

すいません,枝葉末節の揚げ足取りで.
  1. 2021/11/15(月) 08:09:16|
  2. 未分類

ヨーギニーの起源

The roots of the figure of the yoginī lie above all in ancient Indic goddesses known asmātṛs, “the Mothers” or “Mother-goddesses,” as I have attempted to demonstrate elsewhere and summarize below.3 Much like yakṣas and yakṣīs or yakṣiṇīs, divinities intimately connected with the natural world, mātṛs were popular deities in ancient India whose identities and worship were not initially circumscribed by a single religious tradition, whether Buddhism or the emergent theistic sects of the early common era. Defined by maternity and a nexus of beliefs concerning nature’s feminized powers of sustenance, fecundity, contagion, and mortality, mātṛs figure prominently in Kuṣāṇa-era statuary, early medical literature, and the tale-cycles of Skanda in the Mahābhārata. In their early manifestations, especially in the context of the apotropaic cult of Skanda’s “seizers” (skandagrahāḥ), Mother-goddesses represent potentially dangerous forces who afflict children with disease if not propitiated, hence being intimately associated not only with fertility and life, but also sickness and death. By the fifth century, a particular heptad of Mothers coalesces with identities mirroring those of a series of major Brahmanical gods—Brahmā, Śiva, Skanda, Viṣṇu, Varāha (or Yama), and Indra.



自動翻訳すると,以下.

ヨギーニの姿のルーツは、私がこれまでに示してきたように、何よりも古代インドの「母」あるいは「母なる女神」と呼ばれる女神たちにあります3。自然界と密接に結びついた神々であるヤクシャやヤクシーニのように、マートリは古代インドで人気のある神々であり、そのアイデンティティーや崇拝は、仏教や共通時代初期に出現した神道宗派のような単一の宗教的伝統に最初から囲まれているわけではない。母性と、自然が持つ女性化された栄養、繁殖、伝染、死の力に関する信仰の結びつきによって定義されたマートリは、クシャーナ時代の彫像、初期の医学文献、『マハーバーラタ』のスカンダの物語のサイクルに顕著に現れている。初期の表現では、特にスカンダの「押収者」(skandagrahāḥ)というアポトロパ的な崇拝の文脈において、母なる女神は潜在的に危険な力を表しており、崇拝されなければ子供に病気を与えるため、豊穣や生命だけでなく、病気や死とも密接に関連している。5世紀になると、母神の特定のヘプタッドは、一連のバラモン教の主要な神々(ブラフマー、シヴァ、スカンダ、ヴィシュヌ、ヴァラーハ(またはヤマ)、インドラ)と同じアイデンティティを持つようになります。www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。



すごいですね,ヨギーニとなっているのは,やはり,ネット言説からの学習効果でしょう.

グラハのseizersが押収者となっているのが笑えます.

憑き物という訳は,なかなか,出てこないものなんですね.

ヤクシニーがヤクシーニとなっているのは,ヨギーニからの連想による学習でしょうか.

恐るべき学習の深さです.
  1. 2021/11/15(月) 07:55:10|
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シャーマンの論文

Hatley 2016

Such analysis may also inadvertently depend upon essentialist constructions of religion (e.g. ‘Original Buddhism’ and ‘syncretism’). Particularly vexing is the problem of implicitly positioning what is under scrutiny in a hierarchy of authenticity. As Carl Ernst (2005, 15) poses the problem, “once influence has been established, it is felt, one has said something of immense significance; the phenomenon has been explained—or rather, explained away... ‘Sources’ are ‘original’ while those ‘influenced’ by them are ‘derivative’.” With this predicament in mind, I should like to clarify from the beginning that while this essay seeks to highlight ways in which certain Vajrayāna Buddhists may have creatively adapted aspects of a competing tradition—one itself having remarkably hybrid roots, including a long history of exchange with Buddhism—I certainly do not intend to contribute to a perception of Buddhist Yoginītantra traditions as ‘derivative’, but rather to explore some of the ways in which they are historically situated. The present essay seeks to elaborate upon the evolving figure of the yoginī/



deeplで自動翻訳すると,

このような分析は、不注意にも宗教の本質主義的な解釈(「オリジナル仏教」や「シンクレティズム」など)に依存してしまう可能性がある。特に厄介なのは、調査対象となっているものを暗黙のうちに真正性のヒエラルキーの中に位置づけてしまうという問題である。カール・エルンスト(2005, 15)が問題提起しているように、「影響力が確立されると、非常に重要なことを言ったと感じられ、現象が説明され、むしろ説明されなくなる。このような苦境を念頭に置いて、私が最初に明らかにしたいのは、このエッセイでは、ある金剛界の仏教徒が、仏教との長い交流の歴史を含む、驚くほどハイブリッドなルーツを持つ競合する伝統の側面を創造的に取り入れた方法を強調しようとしていますが、仏教のヨギニスタントラの伝統を「派生的」なものとして認識することに貢献しようとしているのではなく、むしろそれらが歴史的に位置づけられているいくつかの方法を探究しようとしているということです。このエッセイでは、進化するヨーギニーの姿を詳しく説明しようとしています。
www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。



アメリカだと,歴史的研究といえども,このような解釈学的な断り書きをいちいち入れないと格好が付かないのでしょう.

やってることは,結局は,かわらないのですけど.

いちおう,ちゃんと意識してますよ,というポーズを示さないといけません.

まあ,たしかに,本質主義的になって,実体視してしまうというのは,人間の本性ですからね.

こういうときこそ,無自性,空の観点に留意すべきなのでしょう.

日本の「雑種文化」と同じで,そこに本質的なものをでっちあげてしまうと,実態がよく見えなくなってしまいますからね.

オリジナルが何かとか,究極の起源が何かなどを追及したくなるのは分かりますけど,しかし,水源をみたら分かるように,最初は,あちこちにちょろちょろが沢山あって,それがいつのまにやら大きな流れになるけど,その最初を見たときには,わかりませんからね.

下流から遡って初めて,ああ,これがそうともいえる,というような感じです.

実際には,いくつもの筋がありますから.

とりあえず,もっとも典型的,象徴的なものを,「これが起源」と言うと言語的・言説的には便利というだけです.

とはいえ,AがBから借用する,パクる,取り入れる,取り込む,利用する,流用する,ということは,実際にあるでしょうし,そんなものでしょう.

模倣は文化の伝播の本質のひとつでしょう.

それが悪いように受け取ってしまうのは,おっしゃるように,このような本質主義の宿痾なのでしょう.

「パクる」というと,「泥棒」という価値観が既に入ってますからね.

現代で言う「コピペ」や「剽窃」などと同様に.

リテラシーだそうです.

そんなこといったら,ヴァーチャスパティとか,コピペマンですから,もう大変ですけど.

彼等のリテラシーからすると,コピペできるほどに沢山暗記できるほうが凄いんですけど.

引用の明記なんて必要ないですからね.(すくなくとも,討論術のルールに「引用明記しない引用は剽窃なので負け」とかいうルールは,ヴァーダにはありません.)

とはいえ,ジャヤンタあたりは,自分のヴァースと引用とを,かなり明示的に区別しますけど.

しかし,シャーリカナータあたりになると,マンダナのヴァースを,あたかも自分のヴァースのように取り込んでいたりしますからね.

ディグナーガも(バルトリハリの詩節に関して)そうですし.

シャーンタラクシタの場合は,クマーリラからの引用とそれを裏返したパロディーが一つの骨格をなしてますし.

というわけで,われわれのしょーもない価値観を押し付けないようにしないといけません.

ちなみに,シャーマン,ハルがペン大にいたときの指導学生.

私が滞在中も,一緒懸命,ピチュマタ(ブラフマヤーマラ)を打ち込んでました.(マハーバーラタくらいとはいいませんが、でかいですからね.)

すでにベンガーリーをやっていたので,そこからシャイヴァという流れで研究を進めてきたのでした.

温厚という点では,シャーマンに適う人はいないでしょう.

ハルより温厚です.

というわけで,シャーマンは,サンダーソンをシャイヴァ研究第一世代とすると,シャイヴァ第三世代にあたります.

にしても,わかりやすい英語でいいですねー.

シャーマン,チベットと漢文は扱えない旨ことわってますけど,ここらへんも入れると,たぶん,もっと立体的に分かるのでしょうね.

いやはや,文献史を本当に明らかにしようとすると語学的には大変です.
  1. 2021/11/15(月) 07:02:43|
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Ryu Cafe, Ohnojo

  1. 2021/11/14(日) 16:18:59|
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マハさんのティファンの会

















経堂まで行って食べればよろし,という話でしょうけど,昨今は,そんなわけにもいきませんでしたから,ありがたい機会です.

福岡でマハさんの料理.

ミールスの会もありましたけど,校訂作業で写本もあれこれ入れ込まないといけませんし,そうそう腹いっぱいになって,お休みしているわけにもいきませんから,昼のティファンの会に参加.

山口さんが挨拶.

腹一杯.満足です.

逆に,日本人が南インドをやると,いろいろな引っかかりがあるのですが,たぶん,それは,

1.質
2.量
3.状況

というようなことでしょうか.

まず,微妙に味が違いますけど,まあ,それは仕方ないでしょう.

また,たとえ,一個一個の味をマスターしたとしても,組み合わせが悪かったりもあります.

これとこれが一緒に出ますか?というようなやつです.

「常識」的にありえないのですが,その「常識」というのは,なかなかわかりませんからね.

和食でいえば,みそ汁とこれを一緒に出すか,みたいなやつです.

そういうのって,明文化されてないことが多いので,わかりがたいのは仕方ないですし,そこまで求めるのは酷なのでしょうけど,しかし,それって大きな要素です.

なんちゃって感がそこで出てしまいます.

あとは,量.

ミールスの場合,顕著にそうですが,腹一杯というのが,ほぼ,ミールスの定義的特質のひとつなので,遍充関係把握段階で,「食べ放題」というのまで込みですから,これがないと――もちろん経費・コスト云々の話はわかりますが――,どうにもこうにも,不満がたまってしまいます.

食べ放題にいったのに,食べ放題じゃなかった,というのと同じですから.

しかし,それも,言っても詮無いことですから,まあ,言いませんけど.

そういう部分でいちいち引っかかることがありますが,それによって,逆に,普通に食べているミールスが,いかに,多くの暗黙の知を前提としているかがわかるので,また,それも勉強になりますけど.

というわけで,レベル以下(あるいはベクトルの異なるもの)を食べることで,自分が暗に前提としていたレベルのいかなるかを再確認.

知らず知らず,いろんな常識が,そこら中に張り巡らされているものです.

あとは,いきなりスタート.

たべはじめ.

あったかいうちに食べたほうがおいしいに決まってますから,食事会に参加のみなさん,全員の盛り付けが揃うまで待つ必要なんかありません.

幼稚園か小学校じゃありませんから.

さっさ食べるにしくはなし.

フリー.

クリシュナムールティや禅の師家に言われるまでもなく,フリーの道人です.

好きに食べる.

そして,好きなタイミングで,好きなものを,お代わり.

久々に,チャトニー,好きなだけつけて,食べれました.

そういうのがすべて満たされた食事会でした.(あとは,アーンドラとタミルにいたので,当然,ケーララよりタミルのほうが,しっくりきます.これは完全に好みの問題でしょうけど.)

ありがたい.

最後にスウィーツとチャイまであると,やはり,落ち着きが違います.

カレーを食べると,やはり,甘いものとチャイ(あるいはコーヒー)が必要になりますから.

そういう意味では,やはり,ミーマーンサーの要素主義より,バルトリハリの全体論にくみしたくなります.

しかし,学ぶ場合には,どうしても,要素要素で分けて学ぶことになりますから,そこで,どうしても,全体が失われてしまいますし,結果として,個々の要素の位置付けもぶれてしまいます.

にしても,マハさんのサンバルのぶっかけ具合,チャトニーの投げ置き具合が,ほんとに,どしゃーっ,カンカン(お玉をバナナ葉にぶつけていく音)とかけ置いていくので,そろりそろりと丁寧に品を置いていくお手伝いのサーブ係日本人との違いが際立って面白かったです.

まだあったかいワダは,やはり,美味しいですね.

和田さんは,南インドだと,すぐに名前覚えてもらえるでしょうね.

片岡は発音しにくくて,まったく覚えてもらえませんでした.

ティルパティの指導教官からして,Katakaとか言ってましたからね.二年経っても.(たぶん,kathaa-kaaraという語源分析をしたうええで,Kathakaというような感じで覚えていたのでしょう.カタックダンスでも習えば,もうちょっと覚えてもらえたかもしれません.)

たまたま福岡に遊びに来ていたAPUインド人女子も参加.

隣でした.

さすが南インド女子ですから,ドリンクを見て,

「え,コーヒー」

と嬉しそうにしてましたけど,残念,チャイでした.

そこは,やはり,日本人向けですから,チャイになるのは仕方ないでしょう.(そこまでの南インド・コーヒー原理主義は私にもありません.)

こじらせた人向けには,プラスティックのカップにMiroとかをうやうやしく出せば,受けるかもしれません.

そういう人用には,もう,インド中華あたりまでいかないと無理かもしれませんが.

ビールは,カリヤーニーのブラックラベルとか.(頭痛しかしません.)

あっつい日の夜に,三上さんと,三上さんの部屋で飲んだのを思い出します.

「うっしっしっし」
「片岡さん,飲みますか」

とか言いながら,新聞紙に包まれた二本のブツを開封.

冷えた(←これ大事)ビール.

たまーに,ビンの温度を確認しなおして,

「ちっきしょー,あんまり冷えてねーな」

とか三上さんがぼやいてます.

そんなときのビール屋の言い訳は決まって,

「きょうは停電だったから,そんなに冷えてないよ」

というもの.

そういえば,ちゃんと,冷蔵代も取ってた気がしますけどね.

にしても,近所のバス停前のミールスが20ルピー切ってましたけど,ビールは,たしか,80とかしてましたからね.

ぜいたく品です.

ロークオリティーで頭痛して喜んでいるのですから世話ありません.



  1. 2021/11/14(日) 15:22:15|
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1960年から

ちなみに,原先生,1930.9.9生まれですが,1960年から1991年までが東大ですから,なんと,30年以上も教えていたことになります.

つまりは,東大に入ったのが,まだ,29歳とか,そういうことになりますね.

ハーヴァード帰りの俊英,ということになるのでしょうか.

とはいえ,30歳というと,我々の世界では,まだまだあれこれと学ぶことがありますから,内心は,教えるのもひやひやだったでしょうね.

なめられんようにしないといけないですから.

東大の先生ともなると,周囲の期待するレベルも高いので,大変だったでしょう.

ともあれ,30年も教えてますから,たしか,わたしの周囲の先生も,原先生にランマンを習った人ばかりでした.

たしか,江島先生も,学生だったように記憶してます.

1939年(昭和14年)8月28日 - 1999年(平成11年)5月22日

ですし,

1962年東京大学文学部印度哲学梵文学科卒

とありますから,まさに,原先生が来られてすぐの頃の学生だったことになりますね.

授業は,どんな感じだったんでしょうね.

そういえば,ちょっと昔までは,授業始まる前に鍵しめて,遅刻を許さなかったという話も聞きましたけど.(私の時は,そんなことはなかったですが.)

Yさんなんかは,しょっちゅう遅刻するので,よく締め出されていたそうです...(想像できます.)
  1. 2021/11/12(金) 22:23:59|
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1990年4月

1990年の4月.

3年生.

印哲に進学.

普通の人は,そこから文法を取るのですが,私の場合,もう前年に土田先生の文法を駒場で終えていましたから,本郷では,最初から中級,ランマンのリーダー.

そう,原先生のあの名物のランマン.

日本仏教も中国仏教も,みんなが通らねばならない原先生のランマンです.

その年が退官前の最後の年.

というわけで,私(と一つ学年が上の伊澤さん)がランマン授業,最後の学生でした.(ほかにも誰かいたかもしれませんけど,忘れました.)

毎週泣きそうでした.

天井の高い総合図書館の一階,噴水の見える側の一角に陣取り,ずっと予習です.

最初のころは,二日くらい準備.

そのうちには一日くらいで何とか.

とはいっても,何時間も何時間もかかります.

一行に1時間とか,普通にかかりますからね.

後ろのページで単語を調べたりして,あるいは,辞書を引いたりして,しかし,それでも,構文が分からないと,いったい何のことを言っているのやら,さっぱりです.

そんなもんです.

いまなら予習なしでも,ぱっぱと分かりますし,なんなら,口頭で言われただけで理解できるでしょうけど,しかし,その当時は,もちろん,そんなことはありません.

谷沢助手が初見で読むなどという話を聞いても,とても信じられませんでした.

なにしろ,一行一時間以上かけでも,さっぱり分からないのですから.

誰しもそんなものです.

というわけで,ランマンは,みなが苦しんだ授業として,みなの記憶に残るのでしょう.

そんな苦労をして,いざ授業に臨んでも,結構,ぱっぱと進むので,あっさり,予習相当箇所まで行ってしまいますからね.

貯金があるときは翌週の予習分が少なくなるのでいいですが,こっちも慣れてきて,大体の進度が分かってくると,ほぼ予想通りの箇所で終わりますから,また,ゼロから予習しないといけません.

嗚呼地獄.

他の学生が楽しそうに図書館前の噴水を歩いているのを見ながら,こっちは,どんよりとアプテ片手に予習,予習.

20歳の春.

そういえば,どこぞの老人,東大のOBなんでしょうか,すんごい本を広い机に沢山つみあげて,毎日,朝から晩まで何かノートを取っている矍鑠たる白髪を短くしたおじいさんがいましたけど,彼を見ながら,「歳とっても勉強なんや」と思ったものです.

そういえば,Wから来た学士の人は,東大に移ってきて,学生がみんな勉強してるので,びっくりしたそうです.

「学生なのに勉強するんだ」と.

矛盾概念だったようです.

ランマン地獄.

予習に二日.

授業では90分ほどで,あっさり終了.(その当時は,まだ,110分だったかもしれませんが.)

嗚呼無情.

というわけで,原先生の授業は,みんなにとっては,恐怖――予習が切れる寸前の薄氷の恐怖――と共に刷り込まれているのでしょう.(別に教授態度そのものは紳士然として温厚でしたけど.)
  1. 2021/11/12(金) 21:37:04|
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無慙無愧

恥知らずなどというと,なにか悪いことのようですが,こと研究に関して,自分が知らないこと,理解できないことに関しては,別に恥じる必要はありません.

無知の無恥.

知らないのだから知らないと言うのは当然.

分かるまで聞けばいいだけです.

研究会などに行くと,知らなくても,いちいち聞くのは恥ずかしいものですから,まあ,日本人なら普通,素通り.

黙ってます.

たまに誰かが質問してくれると,みんな,ほっとしているのが分かります.

ありがたい質問.

アルローなんかは,もう,自分が知らないことは,全然恥ずかしいという心のひとつもなく,ぽんぽん質問しますからね.

だから成長するわけです.

すごい勢いで.

確か,すごく若くしてライデンの教授になってましたからね.

(そのあと,つまらんから辞めて,別のところに移って,ヴェーダからジャワ碑文に研究のメイン対象を移してましたけど.それもすごい話です.)

知らんことは,事実として仕方ありませんから,別に恥じることなく質問.(もちろん,自分で後で調べてもいいわけですけど,「その場の機会を逃さない」というのも大事ですし,実際,周りに人がいる場合には,質問する方が,周囲の人の為にもなります.)

自分の知的成長にとっては重要なことでしょう.

そういえば,Y地さんも,もともとは文学畑ですから,2000年代初頭の国際研究会のシャーストラ(論書系)などでは,「えーっと,これ何だっけ?」と,基本的なことから質問してましたけど,いまでは,普通にシャーストラ関係も押さえてますからね.
  1. 2021/11/12(金) 20:14:29|
  2. 未分類

サーカーラ

日本からすると,時間帯が一時間遅くなったので,夜の9:45から11:15.

さすがに遅いので,翌朝に,録画を視聴.

youtubeには,なぜか,ずっと停止したままのM山の顔が,小さく映り込んでます.(幸い,切り取られた瞬間は,変顔ではなかったですけど.)

さらに,ハルもいそがしく,少し早めるという時間調整が今週はあったので,最初から入っていたメンバーは少なかったようです.

録画だと,こちらで自由に止められるので,ノートを取るには便利です.

しかし,流し聞きでない分,全体の時間はかかりますけど.

ちょうど,プラジュニャーカラマティとJが二諦関連で揉めてるところなので,勝義・世俗の二諦オタクで中観大好きの人々には,面白い箇所です.

そういえば,二諦といえば,赤羽さんを思い出しますね.

S藤さん,K大で文法ならったのは,赤羽さんだったそうです.
  1. 2021/11/12(金) 19:17:34|
  2. 未分類

或る種の資質



自分の頭で分かるまで粘る,というのは,大事な資質です.

もちろん,その分,その場での理解は遅くなるので,教える側はいらいらするかもしれませんが.

牛津にいたころ.

或る友人は,結構粘ります.

相当粘ります.

最後まで質問攻め.

さらに,次の週でも質問.

わたしとかは,もっとあっさりしてますが,彼は,最後の最後まで,自分が納得するまで,なんども理解しようと試みます.

粘り強さ.

こういうのは,ある種の真似できない資質といっていいでしょう.

ちなみに,20年前に一緒に読んだテキストについても,最近彼からメールが来てました.

「ここの解釈はKはこう言ってるが,この可能性は考えられないか」

とのことで,あれこれと可能性を考えていました.

註釈をチェックしなおしたところ,たしかにその通りでした.

同じ所で何度でも繰り返して粘るというのは,やはり(ある意味)大事です.
  1. 2021/11/12(金) 08:10:36|
  2. 未分類

received: 華厳経入法界品

  1. 2021/11/10(水) 19:01:32|
  2. 未分類

ナドーネル



久々にナドーネル(旅するクーネル in Nado).

田主丸のDharmasagar,

また,今週末のマハさんの料理会などについて.

これだけ載って,1000円.
  1. 2021/11/09(火) 19:19:40|
  2. 未分類
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